TOP > 古伊万里の歴史・魅力
江戸時代初期、現在の佐賀県有田で日本初の磁器が誕生しました。有田及びその周辺で焼かれた磁器は、最寄りの伊万里の港に運ばれ、
海路国内各地に出荷されました。「伊万里から運ばれてきた磁器」という意味で「伊万里焼」又は「伊万里」と呼ばれるようになりました。
弊社では有田及びその周辺で焼成された江戸時代の磁器を「古伊万里」、「伊万里焼」と称し用いております。
古伊万里は、江戸時代約100年間にわたり、東南アジアやヨーロッパに大量に輸出され、王侯貴族たちをも虜にします。実用品としてのほか、富や権力の象徴として競って邸宅に飾られました。現代においても海外の愛好家は多く、アンティークショップでは「IMARI」「Old Imari」「Japanese Imari」等と称し、知られ、珍重されています。
やきものは原料の違いにより、大きく分けて磁器と陶器があります。粘土を原料とする陶器に対して、磁器は岩石を原料としています。焼成温度にも差があり、磁器の方が高い温度で焼かれます。白くて滑らかな地肌が特徴の磁器は、絵柄が鮮やかに映え、硬くて丈夫なことが魅力です。
日本磁器の起こりは江戸時代初期の1616(元和2)年にさかのぼります。
豊臣秀吉による文禄・慶長の役(1592~1598)の際に渡来した朝鮮陶工「李参平」が有田の泉山で磁器の原料となる良質な陶石を発見したことにより、日本で初めて磁器の焼成に成功しました。
当初の作品は「初期伊万里」と呼ばれ、藍一色(呉須と呼ばれる顔料は焼成後青く発色する)で描かれた染付が中心でした。素焼きを行わないまま、
釉薬をかけ焼成するため、素地は厚く、歪みや釉ムラもあり、未熟ならではの素朴な味わいがあります。
朝鮮伝来の製磁技術と、それまで日本国内でも珍重されていた中国磁器の染付、文様の影響を受けて誕生した有田焼。それは陶工たちの優れた感性とひたむきな努力によって、
品質は急速に向上します。
1640年代には、中国人の技術をもとに色絵磁器がつくられるようになりました。
それまで主流だった「染付」は、透明釉の下の素地に呉須で絵付けしたもので、「色絵」は本焼き後の釉の上に赤、黄、緑などの色絵具で彩色し、
低温で再度焼成したものです。その後、染付に色絵と金彩を施した磁器もつくられます。
色絵磁器は輸出用として海外でも人気を博し、のちに誕生するヨーロッパ磁器にも絶大な影響を与えることになりました。
磁器の生産が始まって以降、いくつかの様式がうまれ、「染付」、「色絵」技法のほか、素地、成型などの製磁技術もめざましく発展していきます。
有田で開花し、国内へ流通し始めた伊万里焼は、まもなく海外へも進出します。日本は鎖国下にありましたが、貿易が許されていた長崎で、
中国船とオランダ船が出入りしていました。1647(正保4)年に伊万里焼は、中国船によりカンボジアへ向けて運ばれており、それが日本磁器の輸出の最初とされています。
また、それよりも古くヨーロッパや東南アジアでは、中国磁器が贅沢品として流通していました。ところが明・清王朝交代の内乱により、磁器の生産は衰え、輸出も途絶えていきます。
それまで中国磁器の貿易を盛んに行っていたオランダ東インド会社(略号VOC)は危機に直面します。ヨーロッパでは磁器の生産がされていなかったため、他からの入手が求められました。
その頃、有田では磁器の製作技術は向上し、中国磁器の輸入が困難になったこともあり、生産が活発化していました。このような背景の中で、オランダ東インド会社は、有田磁器の情報を得て、
着目したのです。そして日本と伊万里焼の輸出契約を結ぶこととなり、1659(万治2)年オランダ船は、伊万里焼を載せて長崎・出島を旅立ちます。
ここから伊万里焼の本格的なヨーロッパへの輸出が始まりました。
出島を出港し、拠点のバタビア(ジャカルタ)へ、そしてインド洋を横断、南アフリカのケープタウン経由で、大西洋を北上し本国のオランダへ。往復に2年近い年月を要する大航海です。
オランダ東インド会社からの求めに応じながら、独自の和風化も進み、陶工たちの技術にさらに磨きがかかります。輸出磁器の代表的なものとして、
染付の芙蓉手(皿の周縁部を芙蓉の花のように区画し文様を描いた図案で、中国磁器の意匠のもの)、上品な柿右衛門様式(乳白色の素地に鮮やかな赤を主として、
余白を生かし繊細な色絵を施したもの)、豪華な金襴手(染付に赤と金彩、またその上絵付けに新しい他の色も加わったもの)などがあります。
また、注文により皿の一部分を欠いたひげ皿や、持ち手のついた水注、大型の壺など、ヨーロッパ人の生活様式、趣味嗜好に合ったものも多く作られました。
国内向けとされるうつわも長崎・出島で買われ、海を渡りました。
当初は中国磁器の代わりとして始まった伊万里焼の輸出ですが、質の高い作品を効率よく量産できるように分業体制を整え、みるみるうちに急成長し、
約50年余りの最盛期には膨大な数量を送り出します。王侯貴族の間では、宮殿内に東洋磁器で部屋を豪華に飾り埋めつくす「磁器の間」を設けることが流行し、喝采を浴びました。
伊万里焼のこのようなまでの発展は、ヨーロッパからの多様な要求によるところも大きく、オランダ東インド会社との貿易によって育まれたともいえます。
1700年代になる頃には古伊万里の輸出は減退し、勢いにかげりが見えてきます。
それは、オランダ東インド会社の衰退、中国磁器の生産と輸出の再開、またそれに加え、磁器を盛んに輸入していたヨーロッパで、古伊万里や中国磁器を手本とした自国での
磁器生産を行うようになっていたことなどが要因です。オランダ東インド会社を通じての伊万里焼の公式的な輸出は1757(宝暦7)年、300個を最後に終了しました。(私的な貿易は継続します。)
オランダ人が日本をイメージする言葉のひとつに「IMARI」もあると云われ、これは古伊万里が日本文化の代表として一時代を築いた証でもあるでしょう。
伊万里焼は公式の貿易が終了してから、国内向けの生産に主力をおくこととなります。需要は大名や公家、豪商などの富裕層から中級層にも徐々に
浸透していきました。高級品としてだけではなく、実用品として多種多様の形と文様の食器が増加していきます。
蓋物、鉢、なます皿、急須、瓶、碗、向付、蕎麦猪口、小皿・・・。
蛸唐草や、花唐草、みじん唐草の染付は量産向けで人気文様の代表格です。
また大皿も数多く作られるようになりました。料理が盛りつけられ、祭りなど大勢での宴会に大活躍です。
目新しい異国風物も染付や色絵で描かれ、喜ばれました。愛嬌のあるオランダ人や珍しい品々を運んでくるオランダ船、舶来動物、異人館、
望遠鏡、キリシタン関連・・・
伊万里焼は輸出によりヨーロッパの人々に感銘を与えましたが、日本もヨーロッパの影響を大いに受けていたのです。異国趣味の画題やデザインは、浮世絵、蒔絵、その他工芸品、
印籠までにも登場しました。
オランダからもたらされた言葉、ビール、ポン酢、おてんば、ランドセル、カバンなど、現代ではすっかり定着していますが、当時の西洋趣味の流行は相当なものだったようです。
異国のことを知る機会が少ない人々は、食器に施された物珍しい異国絵柄を眺め、遠い見知らぬ国へ夢を馳せたことでしょう。
江戸後期、幕末における伊万里焼は、食器の主役として、日本の暮らしに広まりました。絵柄文様にも趣向を凝らし、一般庶民をも楽しませ、歓迎されるようになっていたのです。
有田でうまれた磁器は、巧みな技術と陶工たちのセンス、そして高い志のもとで、国内外の世相と需要を反映しながら革新を続けてきました。400年の長い歴史の中で伝統を継承し、
今日にいたります。
模倣と挑戦で焼きあげた皿に始まり、海外からの受注で用途も知らずに手がけた器、絢爛優美な壺、藍色の唐草が鮮やかな大皿、遊び心が図柄に垣間みえる蕎麦猪口、
漫画チックな異人の色絵碗・・・
それぞれのそのうつわには秘められたドラマがあり、そしてそれは二つとないもの、感じ方も十人十色・・・そこに「古伊万里」の奥深い魅力があるのです。