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今年2016年は有田焼創業400年ということもあって、「有田焼」「伊万里焼」を見聞きする機会が多い近頃です。テレビ、雑誌などでの特集も多く、関連のイベントも全国各地で行われていますね。どこも大勢の人で賑わっています。デパ地下で有田焼カレーの売り場もあったり。(レトルトもスパイシーで美味しい!)やきものに特別興味がなかった・・・という方にも大分浸透してきている印象があります。
そこで・・・少し紛らわしいと思われるのが、有田焼、伊万里焼の違いではないでしょうか。
骨董好きな方は当時のものを「伊万里」と呼び、伊万里焼という言い方はあまりしませんね。「伊万里」だけど有田焼?・・・古伊万里とは?どういうこと?はっきりご存じない方もいらっしゃるかと思います。
江戸時代初期、それまで磁器生産がなかった日本で、朝鮮から渡ってきた陶工による技術で日本初の磁器が現在の佐賀県有田で生まれました。そして有田及びその周辺(波佐見、三河内など)で焼かれた磁器が近くの伊万里津(津とは港の意味)から船で出荷されたため、消費地からは伊万里からやって来たやきもの、ということで「伊万里」、「伊万里焼」と呼ばれたのです。
つまり江戸時代の伊万里焼とは有田を中心とする肥前一帯でつくられ、伊万里津から運ばれた磁器(有田焼の他、波佐見焼、三川内焼、志田焼など)を総称していうのです。
現在はつくられる産地名で、〇〇焼と呼んでいます。有田でつくられるものが「有田焼」、伊万里のものが「伊万里焼」、波佐見のものが「波佐見焼」、などといったように。
そして江戸時代に焼かれた肥前磁器を、現代の伊万里焼と区別するために「古伊万里」と、一般的には呼び親しまれているというわけです。(「古伊万里」については江戸時代中期の金襴手様式のみという定義もあります。)
江戸時代に焼かれて伊万里の港から運ばれた伊万里焼の多くは有田焼だったのですね。
こちらがかつて「伊万里焼」の積み出し港として繁栄した一帯。
伊万里津大橋の欄干には古伊万里の再現の大壺が飾られています。(川上側)
こちらは川下側。
今は当時のそのような面影はあまり感じませんが、中心市街地に行くと白壁土蔵(陶器倉庫)造りの街並みもあり、当時の風情を伝えています。
ここはかつて鍋島藩の御用窯があった大川内山地区。一般への販売用ではなく献上や贈答品としての高品位のやきもの「鍋島」が焼かれていました。
目的の違う藩窯は有田から山に囲まれた、こちら大川内山に移され、技術などが漏れないよう徹底した管理のもとで鍋島焼はつくられていたのです。
鍋島藩窯橋の欄干には手描きの陶板と無数の陶片が施されています。
関所や役所が設けられ、陶工たちの行動は厳しい管理体制にあったといいます。今もどこか秘窯の里のムードが残っています。
有田焼、伊万里焼、鍋島焼、古伊万里・・・。優れた技術、伝統を受け継ぎ、現代に続いています。そしてさらに革新を繰り返し、平成の波に乗っています。
この奥深い魅力については、江戸から続く日本磁器の400年の歴史なくしては語れませんね。